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横浜地方裁判所 昭和50年(わ)2005号 判決

主文

被告人を罰金二万五、〇〇〇円に処する。

右罰金を完納することができないときは、金二、〇〇〇円を一日に換算した期間(端数は一日に換算する)被告人を労役場に留置する。

訴訟費用中、証人乙山一郎及び国選弁護人に支給した分は被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、公安委員会の運転免許を受けないで、昭和五〇年一二月一二日午前六時五六分ごろ、横浜市港北区大豆戸町六〇番地附近道路において自動二輪車を運転したものであるが、その当時心神耗弱の状態にあったものである。

(証拠の標目)《省略》

(被告人の犯行当時の精神状態について)

弁護人は本件犯行当時被告人は心神喪失の状態にあったと主張する。

第一、一 鑑定人近藤宗一作成の鑑定書及び第五回公判調書中証人近藤宗一に対する供述記載部分によると、被告人は昭和四四年ごろより例えばその勤務先であった相模原保健所の自記光度計が設置してある試験室の扉を理由不明に釘付けするなどの奇行があり、医師の神経衰弱という診断にも服薬を拒否し、その病院が共産党系であったという理由で共産党嫌いとなり、家庭でも料理の味がおかしい他から不自然な手が加えられている為に違いないと自分勝手に解釈したり、水道の水がおかしいと云って飲まず、家からジュースを持参するなどしていること、昭和三九年に取得した自動二輪車運転免許は更新手続を怠っていたため昭和四四年失効したが、その後も凡そ七回無免許運転で捕まり、その免許再取得は他の免許取得よりも困難ではないのに長洲知事のいる間は再免許を求める気にならないと公言してはばかりないこと、このような法律、社会、政治に対する自閉的見解、特有な体系妄想のある者は精神分裂病、パラフレニーに罹患しているとし、結局本件犯行時被告人は意識障害なく、理非善悪の保たれた精神状態にあったが、特有な妄想のためその弁識に従って行為する能力がなかったと結論付けている(以下、近藤鑑定という)。

二 鑑定人種田真砂雄作成の鑑定書及び証人種田真砂雄の当公判廷における供述によると、

(一)  右近藤鑑定と同じく生活歴からの異常な言動を指摘する他、昭和四九年四月ごろより通勤の為自動二輪車を購入し無免許運転を始め、昭和五〇年当該免許を取得しようとしたが、無免許運転の前歴の為免許証は交付されず、被告人は「革新知事の神奈川では駄目だ」と考え、千葉県でも取得しようとしたが、同様の事であったのでその取得はあきらめていた

(二)  そのような被告人の精神状態は軽度の精神分裂病(破爪型)であり、感情鈍麻、意志力減退(無為、無関心)、被毒被害妄想、思考過程の弛緩がみられるとし、その最も顕著なものは思考障害であるとする。即ち、その思考形式の特徴は述語同一視、全体と部分の同一視、原因と結果の同一視などの前論理的である。被告人の知能はむしろ優れているとみられるが、言葉を選びながらゆっくりと考えを述べるにも拘らず、頻繁に右の前論理を駆使し、その誤謬や矛盾を指摘されても無視し訂正しないところがあり病的であり妄想型の思考障害がある。被告人の思考の内容は一方的で自己特異的である。現実の事象に対していくつかの意味があり得る場合、文脈的に適切なものをとるのが正常者の思考であるが、被告人は自分にとって最も印象的な意味のみを選び出す。例えば、「手を握られるのは誘惑を意味し」、「交通警官からとがめられないのは自分の行為を容認していることである」等とする。更に敷延するに、被告人の思考形式には一貫性がなく、推論の過程が省略されている。むしろ結果が先に出て(妄想着想)後で辻つまを合わせ逆の推論の流れがある。その情報源については某新聞であるが、これについては一方では偏向しているとして信頼しない面があるのに、他の情報源から得ることもせずこの信頼しない新聞から得た情報で推論する。その思考型式に我々が感情移入して彼の立場に立って追体験してみても意味が了解できないところに異常がある。

個人が不安に際して情動的安定を維持しようとして無意識にとる心的メカニズムを防衛機制というが、被告人の防衛機制を整理してみるに、

(1) 不安を換起する刺激や条件を避けることを回避といい、正常人にも見られる防衛機制であるが、現実に置かれている状況の重要さを認識していない場合に異常となる。被告人の場合、本件犯行により現実に勾留されたり、刑務所に送り込まれる等現実的にせっぱ詰った状況におかれているのにこれを全然認識しないで落ち着いて知らん振りをしていることは理解し難いところである。

(2) 不安な現実を否認することを否定といい、これも正常人にも見られる現象であるが、はっきり現存する危険な状態に近ずいている時にみられる否定は本質的に妄想的性質をもち精神病者を示唆するものである。被告人の場合、判決を受け刑務所に行かれる可能性は可成り大きいが、自分の(無免許)は犯罪ではなく免許不携帯だけだとか、自分と全然無関係に向うで勝手に何かやっているとするのは了解の可能性を超えるものである。

(3) つぎに、人の現実的自己像と理想的自己像の間の不一致が余りに大きいとき、強い不満不安を惹き起し、それを免れる為に自らの感情を外に投射する機制については、正常人の場合他の人々に自分と対照的な特徴を見出そうとする。即ち、正常な人は現実の自己像と理想の自己像に正の相関関係が存在する。しかし、妄想性分裂病者では現実の自己像を歪めるか自分の環境を歪めるので両自己像に相関関係がない。これがつまり妄想である。被告人には「誘惑されるほどの美男子」「物に動じない落ち着いた人間」「自分に警官が同情している」「検事は君のは犯罪にならないと云った」等の妄想がある。

(4) 退行はいわば無意識的な幼児がえりである。幼児は小さい責任と大きな依存とを反映するやり方で行動する。現存する不安から逃れるもっとも効果の大きい機制であり正常人でも極く短い時期にみられることがある。正常な退行と病的な退行の区別は不安が知覚された時より前に存在している関係の類型を再発見するかの割合である。云い換えれば、他人に一時的に依存してもやがて本来の関係にもどり得るか否かということである。被告人の退行は明瞭な持続する依存対象がない。それは依存できる他者がいない故に明らかでないのとも考えられるし、ただ働くことにのみ固着することによって、或いは自分を多少でも受け入れてくれる会社や家庭に固着することによって自らの責任ある行動から逃れるやり方をとっているともいえる。そして、黙々と仕事をすることの延長にバイクの運転があり、そこが分裂病である被告人の最も安全な最後のより所であるともいえる。

(三)  本件犯行については、被告人は「無免許運転は悪いことだと承知してやっていた」「これからは無免許運転はしない」旨供述している一方、「警察はわざと自分を見逃している」「本当は無免許運転ではない。免許証はもらえたのだが自分の免許は公安委員会に預りになっている」とも述べているところから、本件犯行当時自己の概念を改善する為に現実を歪め、妄想的に解釈したものと考えられ、結局本件犯行当時被告人はその精神分裂病破爪型の特徴である妄想に支配されており思考形式に異常があり、その為に無免許運転に対する理非善悪の判断ができなかった。

と結論付けている(以下、種田鑑定という)。

第二  惟うに、刑法第三九条の心神喪失は行為者が行為当時是非善悪を弁識し、その弁識に従って行為することのできる能力がないことを、心神耗弱はそれが著しく弱いことを謂うが、ともに刑事司法上の概念であるところ、右はいずれも行為者の行為時における精神障害に係るものとして、当該分野を専門的に担当する精神医学上の症状観察及び診断の援けをかりなければならない場合が多いものであるが、右の診断はあくまでも医学上の結論であって、その結果が行為者の精神に異常があると鑑定された場合にこれが刑法上心神喪失ないし心神耗弱に該当するかどうかは更に司法的判断を要し、これは右鑑定の結果の他、公判廷に顕出された総ての証拠を総合して専ら裁判所の専権に属する事柄というべく、必らずしもその鑑定の結果に拘束されるものではないことはいうを俟たない。

ところで、検察官所論では、被告人の鑑定時における精神状態を近藤鑑定においては被告人をパラノイアと診断し、種田鑑定においてはこれを否定し破爪型分裂病と診断しておるところ、右近藤鑑定についてはその資料としては専ら妻の甲野花子の供述に頼り、家族歴(遺伝歴)、本人歴(生活歴)の他、各種心理検査等不可欠のものを欠いているとして同鑑定の結論部分を否定し、右種田鑑定においては分裂病では人格崩壊が起るのに同鑑定以後の被告人の状態はこれを裏切り、むしろ良化している状態であるとしてその結論を疑い、又右両鑑定の診断の喰い違いがひいては鑑定としての証拠価値を疑わせるものであるとする。

然し、精神医学上の診断は主として現象学的見地からの分類であって、その分類の前提としてはもとより心理的、社会的、論理的、倫理的側面をも併せもつ人間の複雑多岐な全体構造の内から異常な症候を観察して引き出すことから始まり、これらの異常な特色をもつ症候群を統合して整理するものであるが、右のような人間は個性もあることからそのような定型的な分類に当てはまるものに限らず、非定型的な精神異常も見出し得るものであって、そのようなものの判断は難しく、従ってそのように分類上為された分裂病ないしはパラノイアとかの名称に特別に拘泥して一方ないし双方を全く否定し去る訳にはゆかないし(右分裂病もパラノイアも分類上の学説の差はあっても、ともに似た症候群をもつものとして、今日の精神医学上認められている概念である)、又右症候を把握したならば更にその原因を追求することが始まり、その為には前記家族歴、本人歴等の資料が極めて重要な要素となるであろうが、必らずしも必要不可欠のものというべきものではないというべく、不充分であるが被告人の妻の供述を頼りとしているのであれば(近藤鑑定)、それをその限りで措信すべく、又種田鑑定も様々な心理検査を行っているのである。以上を要するに、刑法上被告人が心神喪失ないし耗弱の状態にあったかどうかはこれらの点を弁きまえ一の判断のよすがとして司法判断をすることとなるが、特に重要なのは診断という結論よりかその因となった異常な症候群に注目しなければならない。尚、鑑定時における被告人の精神状態は犯行時におけるそれとの時間的ずれがあることはやむを得ないが、これは鑑定時におけるその精神状態より犯行時におけるそれを推論する他はない。

第三  一 ところで、無免許運転罪の故意については、(イ)自己が当該車輛を運転するについての免許のないこと、及び(ロ)当該車輛(本件では自動二輪車)を運転すること、即ち道路において車輛を本来の用法に従って用いることの認識を必要とする。本来の用法に従うというが、平たくいえばエンジンをかけて車で道路上を目的地に向うというそれ丈の事実の認識である。この点、《証拠省略》によれば、被告人は出勤の為(勤務先は川崎市川崎区桜本町二丁目一六番地田村組)肩書住居地より本件自動二輪車を運転して横浜市港北区大豆戸町六〇番地先道路に至ったことが認められるのであるから、被告人に当然右事実の認識はありこれを以て足る。然し、右(イ)の点については他に道路交通法に免許証不携帯罪(同法第一二一条第一項第一〇号)も存在し、免許証を持たないで運転するという重なり合う部分もあることからその区別も含め、意味の認識を要するのではないか。この意味の理解について被告人に取り違えはないのか。さきの種田鑑定にみるとおり被告人の異常は思考内容ではなく思考の形式に存在するというのであれば、右意味の理解は直接推理の作用であろうが、間接推理の流れという思考の形式面もないことはないので、それが被告人の是非弁別の判断能力に影響を及ぼすことも考えられる。

二 翻えって考えるに、自動車ないし自動二輪車を運転するには免許を必要とするという考え方は、凡そこれら車輛を所有し、又は自ら運転することが国民一般に広まって来た現在では或る程度常識化しているといえるのであるが、道路交通法第六四条第一一八条第一項第一号の無免許運転は国民的社会秩序における基本的生活秩序に対してはなお派生的生活秩序とみられ、無免許運転行為それ自体はそれが道路交通の安全及び円滑の確保という行政的政策的目的から法によって許されないものと規定されているものであるから行政犯の範疇にあるところ(例えば、無免許運転が何故いけないかとの問に対してそれが往来の危険のある道路を自動で走る車輛は殊に一定の技術に達していなければその危険が多いから((所謂許された危険))、その認証なくして運転することは許されるべきでないのに拘らず、敢えて無免許運転することはいけないという反社会的反倫理的な理由からではなく、法律に定められているからということのみの認識しか持ち得ない例が多くみられるのであって、その程度の常識しか持たない者が多い。自動二輪車では殊にそうである)、そのような行政犯では故意の成立には違法性の意識の可能性を必要とすると解する。即ち、行為者は事実の認識がある以上規範についての問題に直面しているのであるから、違法の意識の可能性があって始めて直接的な反規範的態度を認めることができるのであって、その可能性もなければ非難可能性はないといわなければならないのである。

三 ところで、無免許運転の罪は既に昭和三五年以前より制定されており通常人の是非弁識能力、行動能力からすれば特別の事情のない限り当然に右違法性の意識の可能性は存在するとみうるが、被告人の場合は特に昭和四四年ごろより言動の異常が認められ、昭和五〇年一〇月ごろ当該免許を取得しようとしたが拒否処分にあったところ、無免許運転は一応悪いとの認識はあるようであるが、その理由をもともと政治的には無色な免許証の交付を殊更政治的理由からこじつけたり、免許証は手許にないだけであると弁明したりしており(種田鑑定によって認められる)正常な人間であれば無免許運転が何故いけないかの理由は、問い是せばエンジンで作動する自動車ないしは自動二輪車のようなものは一定水準に達した知識と技能を有した者がこれを制禦して運転しなければ暴走し危険を生じることが明らかであるから、右の知識と技能を公証する為に免許制度があることを誰でも了解できる筈のところであるのに、被告人が何故に無免許運転をしたかについてのこれらの弁明は被告人特有のものであって、正常人の立場からは到底その意味を了解することが困難であるといわなければならず、矢張り前記種田鑑定(二)(1)ないし(4)、(三)にみられるとおり被告人はその思考型式の異常から彼独自の妄想的解釈により自己の行為の正当化を試みようとしていたといわなければならず、被告人には前記第三項一(イ)の意味の理解の点も併せて、その人格特性から違法性の意識の可能性はあってもそれを意識することが通常人に比べて困難な事情があったとみなければならない。

そうすると、そのような被告人には本件犯行当時自らの判断能力に従って是非を弁識し行動する能力に全て欠けるところはないが幾分減退しているところがあったということができる。即ち、被告人は右当時心神耗弱の状態にあったといえるので、弁護人の主張はこの限度で相当である(尚、本件は種田鑑定のみで充分であるので証拠の標目には同鑑定のみを掲げる)。

(法令の適用)

被告人の判示所為は道路交通法第六四条第一一八条第一項第一号に該当するところ、所定刑中罰金刑を選択するが、右行為当時被告人は心神耗弱の状態にあったから刑法第三九条第二項第六八条第四号により法律上の減軽をした金額の範囲内で被告人を罰金二万五、〇〇〇円に処すこととし、尚同法第一八条を適用して右罰金を完納することができないときは金二、〇〇〇円を一日に換算した期間(端数は一日に換算する)被告人を労役場に留置する。

訴訟費用は刑事訴訟法第一八一条第一項本文により証人乙山一郎及び国選弁護人に支給した分のみを被告人の負担とする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判官 宗哲朗)

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